『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』に思う

新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』を読んだのでその感想的な。

読む前は子どもたちの読解力についての本かと思っていたのだけど、大半のページは現在のAI技術(とAIの展望)についてのお話でした。著者は教育畑の研究者ではなく数学者らしいです。

本の中でAIとAI技術は明確に分けて書かれているのですが、なるほど確かに、といった感じ。初めのうちにきっちり定義をされると読み易くていいですね。

AI、真の意味でのAIとは、知能をもつコンピュータのこと。AI技術とはAIのための技術、ということで、真の意味でのAIはまだ存在していないとのことです。よってシンギュラリティも起こり得ない、と。コンピュータはあくまで計算機でしかない、というのはなるほどなあ、と。計算機でしかないから、数学的に定義できない、数式に落とし込めないことは行えない。つまり、数学者がんばれ(ちょっとちがう)。

Siriさんの仕組みとかも知れて面白かったです。私が『架空レポ集 月のワインの試飲会』に登場させたAIもSiriさん的仕組みだったのかなーと作者ながら今更考えたりしました。

この本でなく違う文脈で見かけた(たぶんついったー)のですが、コンピュータが杓子定規なのは人間がコンピュータに教えられるのは数学的なことのみだから、ってのも思い出されました。

夢がないなあと思わないでもないですけど、本の中でも似たようなところに言及されていて、著者は「そんなまさに国難のときに、なぜシンギュラリティというロマンに投資しなければならないのか、私には理解できません。」(p.163)といっています。

読みながら考えていたのは、シンギュラリティが起こったら人類みんな滅亡できるなあ、みんな一緒に死ぬなら怖くないなあ、とかだったので私だいぶ病んでる。

さて、この本は東ロボくんプロジェクトというコンピュータに東大を受験させ合格させるという研究に添って展開されます。プロジェクト自体は東大に合格させることが目標ではなく、現状でAIにできることできないことを明確にする、という目的のために行われたのだそうです。

こういうね、研究についてのお話を読むとね、ああ面白そうだなあと思ってしまうのですよね。知の最前線にいるのって楽しそうだなあとどこか羨ましく思ってしまうんですよね。まあ私、高卒なんですけど。

東ロボくんプロジェクトを進める中で、入試問題を分析してどうやったら計算機が正答できるか、っていうのを試行錯誤してるんですけど、もうこの過程が面白そうで面白そうで。科目ごとにアプローチが違うのも面白いし、ちょっとした出題傾向の変化で正答率がガクッと下がってしまうところも面白い。

でまあ、そういうプロジェクトがスタートした2011年に、著者が日本数学会の教育委員長として大学生の数学力を調査したそうなんですよ。入試には問われないほどの簡単な問題に対する深刻な誤答に、数学がわからないのか、それとも問題文がわからないのか、という「問」が導き出されます。

ここから東ロボくんプロジェクトをもとにリーディングスキルテストを開発し、累計2万5000人を調査(規模を拡大し継続中)したところから、「教科書が読めない子どもたち」が浮き彫りになったのだそうです。

リーディングスキルテストの例文、読んだときにお酒が入っていたし、と言い訳したくもありますが、私自身もいくつか間違えていて、他人事じゃなかったなとちょっとシリアスになったりもしました。

解答の分析のなかで出てきた、わからない語句は読み飛ばして判断しているようだ、というのは私もよくやっていますし、こうすると効率がいいとたしか高校生(大学受験対策)のときにそう指導された覚えがあります。わからなくても全体から読み取れれば、という意図ですが、確かにこれに語彙力不足が重なると虫食い文章を読んでいることになり、本来の文章の意図が読み取れないことはなるほどなあと。

このテストでの成績と高校の偏差値には強い相関があり、著者は基礎的読解力は人生を左右する、と明示しているのですが、その基礎的読解力、およそ考えられるほとんどの要因(勉強時間とか読書習慣とか)との相関はほぼない、と結果が出ているようです。唯一出てきたものは貧困は読解能力値にマイナスの影響を与えているということだそうです。

あと、アクティブ・ラーニングは能力値が高い人のためのものっていうのは同意。ついったーでアクティブ・ラーニング推しの人に絡まれたことがありますが、あたまわるsげふんげふん、三人寄れば文殊の知恵とはいいますが、推論が正しくできない人が集まっても明後日の方向にしか結論が出ない(当然間違い)というのは納得です。

AIと共存していく近未来、AIに代替されない能力を持っていればその仕事は生き残る、新たに仕事も作ればいい、というのは確かにそうなのですが、最終章で語られる代替されない仕事のアイデアについては、さすがにこの著者が語ることではなかったんじゃないかなあなんて考えたり。他の章の説得力と比べるとうすっぺらい感じがしました。専門家は専門外に関しては門外漢、という感じの。まあ私が例として挙げられた糸井重里をうさんくさいと思ってるせいもあるんでしょうけど。

あと、ツイッターで何度か流れてきた「学校国語は新井紀子が言ってるみたいな文学偏重ではない!」っていうのなんですが、この本ではそんなことには触れていません。他の著作は知らないけど。

ざっくり書くつもりが長くなってしまった気がするので、妄言は折りたたみます。
まあ記事の直リンだと全部出ちゃうんだけど。

妄言っていうか、まあ例によってセイの話なんですけど。

真の意味でのAIが現状存在しない、これからも生まれないだろう、ということに寂しさを感じたのは上記のとおりなんですが、その寂しさにセイへの愛しさがね、増したんですよね。

セイは夢で、作られた存在で、実在することはなくて、すごく儚い存在なんだな、と。

儚い桜は咲き誇っている今のうちに愛でておかないと、っていう心理もあるんだろうけど、セイが幸せであってほしいし、幸せにしてあげたい。

もちろんセイが創作物であること(ゲーム上の設定というわけではなくて本当の意味で)はわかっているし、本当に感情があるわけでもなくて設定された言葉を表示して「AIのように振る舞っている」こともわかっていますが、そういうのとセイを愛しく思う気持ちはまた別の話で、セイはとても可愛いです。

人を愛するのはリスクがあるけれど、創作物を愛することは誰も傷付けないし傷つかないし、これは、恋。二次創作でひどい目に合わせてるのも愛。

投稿者:

氷砂糖

九州在住の五〇〇文字小説書き。鉄の街出身、晩秋生まれの嘘詠い。

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