ささやかなSFを書く理由

タイトルに偽りありですね。最近はめっきりお話自体を書いていないもので。

先日、山本弘氏のとある本のあとがきを読む機会がありました。販促のため、と銘打ってnoteに掲載されたというのがTLに流れてきたんです。氏が大病を患ったというのもその記事で知りました。

あとがきの中で氏は「簡単な計算もできなくなってハードSFはもう書けない(意訳)」とおっしゃってました。『アルジャーノンに花束を』の後半に入ったところ、だとも。

これを読んで私は複雑な気持ちになったのでした。

プロフィールから辿れるようになっていますが、私は二十歳の時に精神病を発症しました。当時大学生、レベルが高いとは決して言えない大学ですが、理学部でそこそこ勉学を楽しんでいたのです。

実はあちこちで書き散らしているのですが、発症したかな、という頃にまず出たのが「本を読めない」という症状でした。いや、ほかにも気分が沈むとか聴覚過敏とかいろいろ出てはいたのですが、一番私にダメージを与えたのが本を読めないという症状だったんです。どちらかといえば読書が好きだったという理由もありますし、なんといっても教科書が読めなかったら勉強ができません。一年休学して入院したのですが、病棟で過ごす間、高校生の時に読んだ『アルジャーノンに花束を』のことを折に触れ思い出していました。

お話を初めて書いたのはその入院中のことで、つまり私は頭がまともだったときに書き物をしたことがありません。氏のあとがきは、私にはもともとハードSFを書く素養はなかったのだよ、と宣告されたようでした。

言い訳のように話を続けますが、私がハードSFを書かないのは、ハードSFにそこまで執着していないからです。科学考察に熱心な方は往々にしてマウント取りがお好きですし、供給もたくさんあります。対して、私が書きたいのは「人の営み」の物語。以前『架空レポ集 月のワインの試飲会』へ「生活密着SF」というレビューをいただいたときはなるほど、私の書きたかったものはそれだな、と納得しました。(リンク先はKindleストアなのでよかったらどうぞ、99円です)

ミクロ志向/マクロ志向という指標があるならば、私は間違いなくミクロ志向です。ダイナミズムを自らの腑に落とさせる理解力がありません。ハードSFは、どちらかといえばマクロ志向と相性がいいものに思われます。

サイエンスの発展が世界にどう影響を及ぼすかよりも、人々はその技術を手に入れたときどうふるまうのか。そちらの方により興味を惹かれます。だから私はささやかで身近なSFを書くのでしょう。

ああ、私は人が好きなのだなあと哀しく思います。

やりたいことと向いていることが違うのはよくあることです。私は元来寂しがり屋なのです。人に私の話すことを聞いてほしくて、物語の形で言いたいことを表現する手法を身につけたというのもあります。まあ創作に足を突っ込んだらそっちはそっちでなかなか面倒な界隈だったという笑えない話もありますけれども。

人にかかわりたくて、でも向いてなくて、せめてフィクションの中だけでも、と近頃はもっぱら自身を癒すためだけの執筆です。このブログ記事も似たようなものです。

福岡は桜が咲きました。外出自粛要請もでていますけれども。

投稿者:

氷砂糖

九州在住の五〇〇文字小説書きだった人。鉄の街出身、晩秋生まれの嘘詠い。

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