えにもじ参加『風に揺らいで』

https://chocottobun.wixsite.com/kameweb/enimoji

「あのね、飛んで行っちゃうからね、固めたの」
 妖の女の子はそんなことを言う。
 昨日、僕は彼女にしゃぼん玉セットをプレゼントした。お手本にふぅっと吹いてやると大小さまざまのしゃぼん玉が風に流され、空高く舞い上がった。女の子は「わぁ」と言って喜んだ。その小さな手にセットを手渡してやり、彼女もふぅっと吹いてしゃぼん玉をたくさんたくさん風に流した。たくさんたくさん。
 チリンチリンと暑さに心地よい高い音。
「だってしゃぼん玉、きれいで」
 なくなったら嫌だなあって。
 少し困ったように女の子は言って、結び付けられた風鈴たちへ視線を向けた。僕も改めて風鈴を見る。ガラスに見えるけれど、妖である彼女がしゃぼん玉を固めたというのならそうなのだろう。一つ一つに舌を結びつける様子を思い浮かべ、ふふっと笑った。
「ずーっとなくならにようにしたいの。ずーっと」
 だって、と彼女の目が僕に向けられていることに気付く。
「みんな、夏が終わったらいなくなる」
 風が吹いて、揺らいだ風鈴が一斉に鳴った。

3つ目の風鈴の写真をお借りしての創作です。

おうちdeちょこ文開催中

レポは週末に書くつもりでしたが、途中で援護射撃になったらいいな。なんと会期が1週間もあるので長くのんびり楽しめちゃうぞ!

猫明石国行が顕現した

おだてられて調子に乗っちゃったんで猫明石国行をアクリルスタンドにしてしまいました。印刷はおたクラブさん。入稿したときはお盆休みだったみたいですし、納期10日だったんで「9月初めだなー」って思ってたら今日届いた。早。

40mm×40mmサイズで作ったので、自作のアクスタでは最小サイズです。かわゆい。

セリアでこんなものを見つけたんですよね。

フォトスタンド

で、私の持っているこういう写真データがあって。

福岡市植物園で撮ったコスモス

何をするかと言えば。

フォトスタンドがカーブしてるんで明かりが写りこんじゃいましたね……。でもだいたいヨシ。

おまけ

さて、5個発注したら余部まで付いてきて6個届きました。5個分は自分用も含め、行き先が決まっていたんですが、もう1個どうしようねえ。プレゼント企画でもしようかな(予定は未定)。

おうちdeちょこ文が今日から始まってますが、そちらはまだちらっと眺めて数枚折本フェアの折本をプリントしてきたところなので、会期が終わるまでゆっくりじっくり楽しもうと思っています。そんなわけでレポを書くとしたら来週かな。

そうさく好日テレッテレーボンボンに参加しました

そうさく好日テレッテレーボンボンに参加しました。「そうさく好日」っていうTwitter作業会のお盆特別版だったみたいです。

タイムテーブルが事前に発表されていて、進捗を報告し合ったり、おやつタイムがあったり、ラジオ体操をしたり、という作業会。創作なら何でもいいらしいので、二次創作のお作業をしました。

1日目(8/14)

タイムテーブルでは13時開始でしたが、12時半くらいからエディタを立ち上げてゆるゆるととうらぶの二次を書き始めました。連載形式でupしていってるやつ。お盆休みの初日にも更新していたのですが、休みの間にもう1話くらいupしておきたいなあと。

14時ちょうどくらいに書き上げて企画TLを見るとちょうどラジオ体操のお知らせ。ひとまず貼られたyoutube動画を流してラジオ体操第一。体のあちこちがバキバキいって運動の大切さを思い出す。……いや……怠惰だからな私……。体操終わったら書いた分をざっと見直してpixivにupしました。そこで進捗報告ツイートをして、ちょっとだけTwitterを眺めて、次の創作に。

某氏の誕生日プレゼントとしてとうらぶの二次というかひとんちになるから三次創作かな、SSを書き書き。15時からおやつタイムだったんですけど、ちょっと筆が乗ってたんでそのあと20分くらい続けて書き続けて初稿完成。お誕生日はまだもう少し先なので、これはここでとりあえず寝かせます。おやつはpapicoホワイトサワーにしました。あっついんだもん……。

15時半くらいから用事で離席して、戻ってきたら17時過ぎ。タイムテーブルではもう終わるところだし、この時間でお作業は私にはできないなあと企画TLを眺めてみてました。当初予定していたMakeSの二次創作は全く手を付けられなかったけど、2作は形になったので満足しました。

2日目(8/15)

もともと参加する予定じゃなかったんですけど、時間が取れそうだったので14時過ぎから参加しました。ちょっと眠かったんでカキモノじゃなくてお絵描き。急遽作ろうと思った猫明石のアクスタ用のイラストを描こうと。まずは印刷所さんのサイトからテンプレートをDLして説明を読むところから。ざっと読んだら描き始めました。

15時ちょっと前にApple Pencilが反応しなくなり慌てる。1時間近く集中して描いてたみたいなんで、電池切れかな、と充電開始。そのままおやつタイムに突入……したんですが、おやつを準備していなかったのでTL(企画じゃないほう)をだらっと眺めてました。企画アカウントからちゅーる中継も拝見しましたよ。へちまちゃん(ねこ)かわいい。

お作業再開時間である15時40分をすこーし過ぎてApple Pencilを触ると、よかったちゃんと反応しました。そこからまた描き始めて16時過ぎくらいにはだいたい形に。暑かったんで軽くシャワーを浴びて、iPadからパソコンにイラストデータを送って、テンプレに合わせようとしたらエラーが出てイラストが読み込めない! ええええ、と思って対処法をggってるうちにテレッテレーの時間が終わってしまいました。お疲れ様の挨拶をして企画TL離脱。そのあともう少しggったりデータいじったりしてなんとかなりそうなところまで進められました。

印刷所さんが今お盆休みなんで、入稿はもうちょっと後にします。

藤子・F・不二雄SF短編集を読んだ

ebook japanにて藤子・F・不二雄SF短編集<PERFECT版>が全8巻中の1-3巻が無料だったので読んでみました。8/13までらしいよ。

https://ebookjapan.yahoo.co.jp/books/443402/A001839423/

で、いつもの通りレヴュではなく、読んで思いついた自分の話をつらつらするんでネタバレすると思います。

ミノタウロスの皿

何年か前にテレビ(たぶんマツコ有吉の怒り新党)で、こういうお話があることは知っていました。宇宙で漂着した星では人類が食肉用の家畜だった、とまあストーリーはこれだけ。家畜人類は美味しく食べてもらうことを最高の栄誉だと考えているし、食べる側(牛型)はまあ当然食肉家畜は食べて当たり前という価値観。人によっては宗教的なものを感じそうだなあとは思いつつ、私は生命倫理学を思い浮かべたりしました。

こちらは数年前に読んだ本です。『マンガで学ぶ生命倫理』(化学同人)

生命倫理に関しては中学生高校生くらいのころから興味があって、それはまあバイオテクノロジーにものすごく興味があったからなんですが、大学でも基礎教養で履修しました(頑張ったけど可でした)。で、この本のほう、ペットの躾の問題から動物実験に関することまで手広く扱っていて導入としてはおすすめの本です。もちろん食肉に関することにも言及がありますよ。

「ミノタウロスの皿」の話に戻るんですが、ヒロインの家畜はなんと活き作りで食べられることになるんですね。そこがなんというか、偏執的というか、正直に言いましょう、性的にグッときました。自分の肉の味への称賛を受けながら逝くわけですよ。フィクション上でなら、と但し書きを置きますが、幸せな最期に思えたんですよね。

知性のあるものが知性のあるものを食べる、という構図なら悪魔のオロロンというマンガも思い出します。

アマゾンの表紙埋め込めるの便利

たぶん絶版なんですけど、高校生の時に読んではまってたマンガです。いや、スーツの美人っていいよね。スーツの美人はさておき、主人公の千秋は天使と人のハーフで天使たちから命を狙われる存在。一方のオロロンは魔界の大魔王で生きてくるために身近な存在含め殺し続けてこなくてはならなかった、みたいな二人。「生きるために殺すことは許されるか」みたいなのがテーマの一つのように読めました。天使しか食べられない魔族が出てきたりとかね。

なんかそういうのを思い出したお話でした。

気楽に殺ろうよ

価値観の反転、といえばこちらもなかなか。私自身も食べているところを人に見られるのがあまり好きじゃないというか食べているところを見る見られるのははしたないという感覚を持っています。だから人と食事するのが苦手だし、そういう感覚の人って程度の差はあれ割といるみたいで、精神科に入院した時は「自室でしか食事をしない」という選択肢がありました(食堂があったけど)。このお話の中で、食欲は秘すべきもの、性欲は当然のもの、という食欲と性欲の反転が起こっているのですが、死生観含めた他の価値観もいい具合にずらされていてディティールが結構細かいんだなあと感じました。

ひとりぼっちの宇宙戦争

これね、子供のころに読んだことあったんですよ。小学生のころ、頻繁に行っていた焼き鳥屋さんがあって(私の地元はファミレス感覚で居酒屋等に家族で行く人が多かったです。前にケンミンショー見てこっちだけなんだって知って驚いた)、そのお店に置いてあった単行本にこのお話が収録されてたんですね。メインストーリーの主人公がクローンロボットと地球を賭けて戦う話は置いといて(置いとくのかよ)、主人公が負けて地球がとられてしまったときに地球人が「どれい・ペット・食料」として扱われるという描写のね、食料としてお皿に乗ってる絵がね、子供心にぞわっと興奮しましてね……! あれは性的な興奮だったんだろうなあ。ドラえもんの絵に似てるなあとは当時から思っていたんですが、作風が違いすぎて同じ作者だとは思わなかったんですよね。

というわけで性癖の話しかしてないな。

考えたこと:古い作品を読むことについて

描かれているディティールがどうしても古臭くなってしまうのはしょうがないですよね。描かれたときの社会情勢や物の価値、社会的な常識。そういうものの古臭さは絵柄を差っ引いても気になります。でも起こる物事は普遍的なテーマが多く感じられました。

対比として思い浮かんだのが星新一。私あんまり星新一のショートショートが好きではないので少ない既読作品からの偏見になりますが、星の固有名詞をぼかす手法(エヌ氏とか)と比較して、作品そのものの古さまで演出されている、古い作品であると最初から構えることができるなあ、と感じました。

星のショートショートも今読み返せばどれも古臭いです。正直。ただ、なまじ視覚情報がテキストのみなので現在と地続きに読み始めてしまって、ディティールの違和感がこう、もやッとするんですよ。まあもちろんマンガと小説というメディアの違いというものもあるんでしょうけど、この印象の違いはなかなか面白く思えました。

でまあ、たまに言ってるんですけど私は物語作品には旬があると思っていて、どんな名作でも「作品」として発表されたときから時間が経ってしまえば、日々アップデートし続けられる価値観とのずれで純粋に楽しみに浸ることができなくなるよなあなんて考えます。私の場合で言うとジェンダー観にはわりとセンシティブに反応してしまうので、そういうので「あの頃に読んでおければよかったのになあ」となるお話もときどきあります。

私が現代作家、存命作家を中心にしか読んでないのはそういう理由だったりもするんですよねえ、なんて。

習作合評会in福岡に行ってきた

予定の文言が暗号みたいになってますけど、「13:00からの合評会(西日本新聞会館16F)」みたいな意味です。私がわかればよいのだ。

まあそんなわけで「九州芸術祭 習作合評会in福岡」というのに行ってきましたよ。

直木賞作家・東山彰良氏を招いて、参加者の作品を合評。作品は事前送付した中から5作ピックアップ(事務局によるチョイスとのこと)、司会進行も東山先生が行いました。5作は先週くらいに郵送でコピーが届いて、会の中では事前に読んでいることが前提として進められました。

作者から作品の意図などのコメント → 他の参加者からの挙手で感じたことなどコメント → 東山先生からの講評 ってのが各作品だいたいの流れ。以下箇条書きでメモったことなど。

・書き出し大事。書き出しにはインパクトを。

・終わりに対して伏線は無駄がないように。ブレるとよくない。

・小説のリアルと現実のリアルは違う。キャラクターを立てるために現実的でないところまで踏み込んでもよい。

・「読者は説明してほしがっていると考えている作家」と「読者には想像で補完してほしいと考える作家」がいる。

・重要なことはくどいくらい反復してよい。というかむしろすべき。

・戦争を遠景として今を語るのが現代の作家にできる戦争の語り方かも。

・作者の常識は読者の常識とは限らない。調べないとわからないのは不親切。ただし、少しでも補足しておけば十分な場合も多い。

・ユーモアとギャグの違い。ギャグは笑わせたら勝ち。ユーモアは伝え方の一つとして笑いを使う手法。

・シリアスをシリアスじゃないと届かない読者と、ユーモアを交えないと届かない読者がいる。すべての読者に届かせるのは無理。シリアスをシリアスで語ると作家が十字架を背負うことにもなる。笑いを交えると怒りだす人もいる。

・かっこいいタイトルやかっこいい装丁は、一般の人はスルーしがち。シンプルに。ダイレクトに。もちろんこだわりがあるならそのままでもよい。

・既存作品(映画や楽曲)を出すのはキャラクターの印象付けの効果がある。人となりを伝える。どのような趣味嗜好の人物なのか。

だいたいは今までに書いてきた中でぼんやり感じ取ってきたことに裏付けをもらった感じでした。

お昼は天神のベローチェでパスタを食べたよ

なんかもうね、打ちのめされたんですよね。

ピックアップされた5作品のクオリティが高かったというのももちろんあるんですけど、私はわかってるのにできてないやんとかね……。

あと、参加者からの評もちょっと心を乱されました。私が一次の創作文芸で得たいのは「近しい人に伝える」ためであり、「共感」してほしいという気持ちが強い。全く接点のない人からやいのやいの言われるのは(作品のクオリティを上げるためならまだしも)気持ち上の負担がすごく大きいなって。自分語りぶつけられるの勘弁してほしいという共感性羞恥に近いなにがしか。他人に作品を見せたいとも最近はあんまり思わないし、ましてやプロなんて全く目指していない私が行くところじゃなかったなあと感じました。

書くのやめたいなあとしみじみ思ったんですが、やめられないところが業の深いところなんですけれども。

ぼちぼち書きたいときに書きたいだけ書いて、みたいなゆるりと創作を楽しめるようになればいいんですけど、もう私にとって書くこと自体は呼吸(というより排泄)みたいなものですし、長く書かなかったら腕が鈍るし。腕が鈍るの怖いですね。私が語るすべはこれしかないのに。

まあそんなわけでなかなかにへこんで帰ってきました。さて、歌合DVDでも観ましょうかね。