小説という表現媒体で活動したい理由

書いたことがあったかもしれない。このサイトでは書いたことがないかもしれない。

らくがき程度の絵を描き、ミニチュアを並べて写真を撮り、詩を書いてみたりもしていたことのある私ですが、いろいろやった結果、やっぱりメインの活動は小説にしたいな、と感じたのが数年前(年末の振り返り記事で書いた記憶)。

小説という表現媒体のどこに魅力を感じているのかを説明してみようかなと。

まずなんといっても「基本的には一人作業で完結させるもの」というところがあります。マイペースでやっても誰にも迷惑が掛からないというのは心理的にとても楽。もちろん旬のネタがあったり、他の人とのコラボ(たとえばうちよそ)とかで歩調を合わせることもありますが、一人で完成形まで持っていけるのは全責任が自分に降りかかるとはいえ、というかそこも含めて気楽だなと。

つぎにテキストのみで伝える、というところが「そういうゲームみたいで楽しい」んです。声、ジェスチャー、図解、そういったものを封じて、テキスト「のみ」でどこまで伝わるか、伝えられるか、というゲーム。山本弘『アイの物語』に「人間とコミュニケーションをとるというゲーム(うろ)」みたいな表現が出てくるんですが、それをやっている感じです。これはこう表現したら伝わ……いやこっちの方がいいかな……? みたいな試行錯誤(基本的には直し、推敲でやりますが)が脳トレみたいな面白さ。

そしてこれに言及している人をあんまり見たことないんですが、わりと大きいのが「テキストのみだと素材として加工できる」というところ。

小説投稿サイトからの漫画化、アニメ化、というメディアミックスがいまわりと商業化志望小説執筆者が求めるメインストリームになっている実感があります。私自身は自作を商業化するつもりがないのでそういう投稿サイトに出入りしている人との交流がそもそもあまりないんですが、でもやりたいこととしてはまあそういう方向性です。

主催さんが若い方だったんで結局そのあとどうなったかわからないんですが、500文字の心臓を卒業するかそのあたりのころ、とある同人アンソロジー企画にお招きいただいていました。フォントアンソロジーという企画です。お題としてフォント(書体)が指定され、そのフォントに合うお話を書く、というのがメインの数号発行されたアンソロジーでした。

そのアンソロジーの最終号だったかで挨拶的文章を求められ(参加者全員です)、私はそれに「物語が素材で、フォントという加工をすることで作品になる感覚があった」みたいなことを書きました。それは私のわりと素直な感想でした。

フォントを変えるだけで作品の色が変わる。

それだけの「可能性」がテキスト素材としての「小説」に秘められている、と感じたのです。

もちろん、人の作品を勝手に使うのは著作権法違反です。でも、自分の作品なら自分で勝手に加工できます。フォントを変えたら? レイアウトを変えたら? 音読してみたら? 歌にしてみたら? 翻訳してみたら? イメージ画は? イメージビデオは? そういう可能性の「素材」としての「小説」。メディアミックスといえばまあそうなんですが、私自身、基本的に物を作るという行為が好きなので、自分で自分用のおもちゃを作っている感じです。

そういうところにね、小説を書くことの面白さを感じています。

かといって筋(プロット)だけ仕上げればいいかといえばまたそれは違って、私は私の扱う日本語の言葉で編まれた「文章作品」としての手触りもね、愛していますよ。小説は小説として「完成品」ではあるのです。小説が書きあがったら100。その100をさらに遊んでたとえば120にできたり、たまに82とかになったり、そういう「自分用のおもちゃとしての完成品」という位置づけです。

とはいえとはいえ。やっぱり一番長く親しんだ表現媒体ということもあり、生み出すのが楽、というのはありますよ。そりゃあねえ。20年くらい何らかの文章を紡ぎ続けてきたわけで。私はわりと飽きっぽいので、そんな私が20年も続けられたんだから、そもそもが「私に合う」表現方法だったんだろうなと思います。そういう自分に合うもの、出会えたことはありがたいですね。

いきる・たべる・かく

体力仕事にプラスして夏バテで、8月に就職してから少し体重が落ちてしまいました。まあ元がおデブなので誤差といえば誤差ではありますが。疲れると食べるのもめんどくさくていけませんね。

創作の中で「食べる」ことをわりと書きがちなのですが、生きていくなら食べないといけない、というのがどうにも私には刷り込まれているようです。好きな作品(マンガや小説など)でも「お腹がすいたらブルーになる、食べなさい」みたいな価値観が描かれているものが多い気がするなあと思います。

一方で私は食べること自体は、じつは、そんなにこだわっているわけではありません。好きな食べ物はもちろんあるのですが、不味いものでなければ同じメニューが何日続いても構わないタイプですし、夫が出かけている日は調理そのものをサボりたいです。そうなのよ、料理するのもめんどくさいと思うくらいのめんどくさがり。なんなら食べるのもめんどくさいと思っちゃうのですが、食べないとおなかすくし、おなかがすいたら動けなくなるし。生きるってめんどくさーい。

食べる、という行為はなんというか少しセンシティブだなと思っています。口が動くことがまあセンシティブといえばセンシティブに感じてしまうところはある。読んだのが高校生のころでつまりは遥か昔なので仔細は忘却の彼方なのですが、姫野カオルコの『不倫』という小説内で、キスは思考と肉体が交わる口を交わし合うから罪深い(うろ)、みたいな文章があり、私は長くそれに囚われています。

それとはまた別で、例えば吸血鬼モノを始めとした捕食/被食関係とかにときめきますし、小学生のころに教科書で読んだ豚をソーセージにする話とか、まあ肉料理が好きなんですが、肉料理ってつまりはころした生き物の体ですからね、そういう罪深さ?のようなものについてもときどき思いを馳せてしまいます。

創作作文はだいたい思い付きから書き始めて、(悪いことだとはわかっていますが)あまり調べものをせずにひとまず結末まで突っ走る、という書き方をしているので、書く際に使っている「道具」ってつまりは私の記憶や知識なんですね。もちろん(特に)本にするときはそれなりに調べて校正しているのですが、初稿はね、だいぶ私の思想の煮凝りです。なので、私の中で「食べる」ということはだいぶ重要なことなんだろうな、と。フード理論とか流行りましたね、昔。今も言われているのかしら。

ちなみに果物で一番好きなのはいちじくかもしれない。

ミステリ好きと思われていたらしい

間違ってはいません。私はミステリ「も」結構好きです。

ミステリとの出会いといえば、子供のころにテレビで観ていた「はぐれ刑事純情派」「さすらい刑事旅情編」とかの印象が強いかな。あとは、内田康夫の浅見光彦シリーズは父の蔵書を借りて小学生の低学年くらいから読み始めていました。じつは「りぼん」本誌より先に浅見光彦読んでた。

でまあ、好きな作家を挙げると原田宗典とか小川洋子とかを挙げる感じになるので純文学ぽいのが好きなんだけどなあとはおもいつつ、ミステリも面白そうだと感じると気軽に手は伸ばしています。

というかここのところの読書はとってもミステリに偏っていたんですけどね。

昔読んだ江國香織のエッセイで「ミステリはけりがつくから好ましい」みたいなことが書かれていて、今になるとなんとなくそれがわかるような気がします。曖昧なものをジャッジし続けながら生きるのに、はっきり「こう!」と答えを提示してくれるのはある種の安心感はね、あります。

さておき、モノカキの一人としての視点で言うと、ミステリというものは物語の駆動力の一番根幹のところを極めた作品、というイメージがぼんやりあります。物語の駆動力、読者に「先を読みたい」と思わせる力のことと一応定義しておきますか。課題が提示されてそれを解決していく、というのが特にエンタメにおける「物語」の形(の大部分)なのですが、その課題を「謎」とし、「謎を解いていく」という形であるミステリは、いやあさすがエンタメの代表格です。

なんか偉そうなことを言いましたが。一方でミステリ読者としての私は、あんまり謎解きそのものには惹かれません。というか頭がわりと残念なので、ミステリを観たり読んだりしていてもリアタイ感想だと「うわー人がしんだ!」「はー! そういうことだったのか!」「なるほどね、なるほどわからん」とかのだいぶ残念な感じになってます。いいんだよそれでも楽しめてるんだから。

フーダニット、いわゆる犯人当てにはあんまり興味がないかな。このあいだちょっと考える機会があったのですが、犯人当てって、当てずっぽうでも場合によっては当たることがあるじゃないですか。そういうのって「フェアじゃないなあ」「美しくないなあ」と思ってしまうんですね。これはあくまで私にとって、ということは再度明記しておきます。

一番アガるのはワイダニットかな。私はやっぱり「その人物がなぜそこでそうしたのか」みたいなところに興味が湧くようなので、そういう謎が解きほぐされていく過程はとても熱中して読みますね。

舞台設定だと一番好むのは現代ものです。作品外の知識がなくても楽しめるもの。なぜなら私は物を知らない……事前知識がないと楽しめない、というのは私にとってはマイナス要素ですね。没頭するには持っている情報だけで楽しめる方がありがたい。そういう意味ではいわゆる「歴史ミステリ」にカテゴライズされる作品はちょっと近寄りがたいです。

まあそんなわけで、ミステリも楽しんでる私なのですが、最近「当たり」のミステリを続けて3冊も読めてほくほくなのでした。

氷砂糖的SF考

SF短編コンテストの原稿を直しているんでSFのことで頭がわりといっぱい。

今日はテレッテレー(ウェブお作業会)なのでそのコンテスト用短編を直しつつ、インターバルでちょっとしたSF短編を書き始めてもいました。書きあがらなかったけど。

さてSF。

一般的にはサイエンス・フィクション、ですかね。スペース・フィクションの人もいるかもしれない。まあ要は未来の科学技術をベースにしたお話、というあたりですか。わかるわかる、すこしふしぎ、の人も多いよね。藤子・F先生は偉大。

というあたりでゆるSFを書いているという点でSF者が自認の私なのですが、私が書いているのって「サイエンス・ファンタジー」だなあと。原稿を直しながら考えてました。

ええい! 科学技術の物語に魔法とか出してくるんじゃない! とツッコむ内なる私。

高度に発達した科学技術は魔法と変わらないんだよ! と叫ぶ内なる私。

まあそこはいつもなら対立する内なる私同士なんですが、コンテスト用の短編はダイレクトに魔法です。なんでや。異世界転移です、要は。これSFのコンテストに出していいんでしょうか。

さておき、元化学徒(たまに言ってますが、理学部化学科を中退しています)なので科学技術そのものには素直にときめきます。今でもたまに科学論文の日本語サマリーくらいなら拾い読みすることがある程度には。なのでSFはもともと好きではあるんですが、頭があんまりよろしくないので難しい理論を捏ねられるよりは「これはこうだからこうなんだ! えいや!」の方が物語としては親しみやすいです。なので私の書くSFもあんまり設定を表では説明しません。裏設定としてだいぶ詰めてることはまあまあありますが、それは作品の雰囲気によっては出さない方がおしゃれですし?

というあたりでね、SF短編コンテストに応募予定のお話、さすがにFがファンタジーすぎるので受賞はしないだろうと思っていて、(受賞したら出版権がどうのがあるかはわかんないんですが)落選したら堂々と同人誌にしちゃおうかな! と思いまして。

で、その同人誌のタイトルを『サイエンティフィック・ファンタジー』にしようかな、と思いついたおはなしでした。短編1つではいくら何でも薄すぎる(物理的に)ので、もう何編か氷砂糖流のSF短編を書いて、同時収録で短編集にする予定です。今日新たに書き始めた短編も一応それ用だったりします。

同人誌って構想練ってる段階が一番楽しくって(諸説あり)、タイトル思いついてわくわくし、どうせならまたプリントオンさんのわくドキデザインセット使おうかな、と思ってわくわくし、いやぁ、夢が広がりますね!

縛りプレイでGO!

ご存じですか、「縛りプレイ」。SMプレイのことではありません。

まあご存じだとはわかってて書いているのですが、ゲームなんかで追加の自主的なルールを決めてその中でプレイすることです。基本的には普通のプレイじゃ飽きてきたなーって人がやるやつですね。

で、私はそんなにゲームをする方じゃないんで、この「縛りプレイ」もゲームのことじゃないんです。まあ数少ないプレイしているゲームであるところの刀剣乱舞は「刀解しない」という縛りプレイはやっているんですが。ついでに語っておくと、ゲーム難易度を上げるための刀解しない縛りではなく、なんか刀解ってのがこわいな……という心理的な理由による縛りプレイです。

さて、人生いろいろな物事がありまして(雑)、漫然と物事に当たるよりは「縛り」を設けて楽しんじゃおう! みたいな感じでやっていくことをわりとよくやっています。

ちなみにここのブログに関しては「1記事に最低1つはメディアを入れる」というのを努力義務程度の縛りとして設けていたりします。実は。これ、一応理由がありまして、私は文章書きがメインなので文章はつらつらーっと書いていけてそれで満足しがちなんですが、文章だけの記事ッてさあ、華がないんですよ。なので「最後にパセリを載せる」くらいの感じでメディア(だいたいは写真からくがき)を載せています。あんまり負担になることやると記事書くのも億劫になりますし。

noteをやっていることは前にも書いたと思うんですが、いま動かしているアカウントだと、アイキャッチを必ず入れる、という縛りを設けています。この縛りは短文(140字)投稿ができなくなってから設けた縛りなんですが、アイキャッチがあるとSNSにシェアした時に画像が出るのでちょっと目を惹くんですよね。それがいいなと。

そしてそのnote。後付けの縛りなんですが、雑談的な記事(ブログ的なもの)のアイキャッチは食べ物の写真を載せるようにしました。というだけのことが書きたかったブログでした。前置きが長い。

いや、テーマがあるならテーマに沿ったアイキャッチを入れたいんですよ、本当は。でもさあ、いちいち写真を撮るのも大変(だし沿った写真が撮れるかもわからない)だし、かといってわざわざ素材サイトさんに探しに行くのも億劫。

そんなことを思いながらGoogleフォトを眺めていて、「ごはんの写真ならいろいろあるし適宜増えるな……?」と気付いたんです。というわけでブログ的note記事にはごはんの写真をアイキャッチに使うのが基本になっています。

これ、副次的にもしかすると効いているかもしれないなと思ったんですが、「なんか食べ物の写真の記事でエッセイ書いてる人いるな?」と認識されないかな、とか。ブランディングじゃないんですが、なんか一定のわかりやすいルールで同じことをやってる人って覚えやすいじゃないですか。私、あんまり宣伝が得意じゃないタイプのモノカキなので、そういうね、姑息な方法をね、試して……どうなんだろう。実際のところの効果は。

さておき、縛りプレイでいろんな活動に自主的なルールを勝手に適用して進めて行っている面があるんですが、いちおうその「自主的なルール」は「放っておくと忘れてしまいがちなもの」を設定して、なんかね、あんまり手間をかけずに物事をうまくやっていけないかな、という私なりのコツなのでした。

どうして紙の同人誌を作るかって?

なんか「ウェブで公開すればタダなのにどうしてわざわざ紙の同人誌を作って頒布するのか」論争があったみたいですが、そんなもん、私が紙の本として自分の作品を読みたいからですよ!

と言ってしまえばもうそれで結論ではあるんですが、まあもう少し続けてみましょう。

というかね、そもそも今の私は同人誌を頒布してなくてですね、入ってくるお金はありません。一方的に印刷費が出ていくだけです。それでもね、紙の本を刷りたいんですよ。もちろん、プレゼントした友達からだけでは飽き足らず、世間一般からも感想を募りたいので、一次創作の作品に関しては原則すべてウェブ公開しています。

だいぶ昔にここのブログに書いた記憶があるんですけど、漫然とwebに漂っている作品よりも、同人誌としてパッケージされたものの方が「読まれやすい」体感があります。それを思ったとき、私はまだたとえば500文字小説のようなすごく短い作品を集めた作品集ばかり作っていたので、少し長めのもの(全体で1万字前後)を書くようになってまた少し、感覚は違ってはいるんですが、でも、「本」という物理パッケージはつよい、です。

世の中には小説を書くだけで満足して、本にもしないしウェブ公開もしないという人がいます。いるらしい。信じられないけど。私はそこまで達観できないので、「書けた! 見て!」という幼女マインドで書いたものを人に押し付けているんですけれども、確かにね、ウェブだと場所も取らないしやり取りもURL送るだけだし簡単です。たださあ、せっかく書いたお話。どうせならいいおべべを着せてお披露目してあげたいじゃないですか。

という話がありつつ、私のここ数年の発行部数は基本的にはヒトケタ部数です。たまーに多くて15部とか。在庫抱えるのもめんどくさいのはあるのでねえ。というか在庫どうしようねえ。

紙の本。質量があり、体積があり、そこまで思い入れがないならただ邪魔な存在です。それはもう認めるしかない。でもね。邪魔ってつまり、存在を感じさせるんですよ。つまり送り付けられた相手にしてみれば「読んで!」の圧。私はわるいことをしているなあ。

そんなことを言いつつ、冒頭の通り、まずは私自身が自分の小説を紙の本でほしいんです。読書家と言えるほど本を読んでいるわけではないんですが、読書が娯楽の大きなウェイトを占めてきた人生だったので、なんかそういう「本っぽいもの」が自分の手のかかったもので存在している、ということにときめきます。

なので! 私は! 自分のために紙の同人誌を作っています!

ところでこの記事を書こうと考えていたところ、そういえば一次創作同人誌の表紙一覧とか欲しいな? と思い、先ほどページを作りました。よかったら覗いていってね☆ メニューからも行けるよー。

なんかかきたい

この「かきたい」は「書きたい」だったり「描きたい」だったりするわけなんですが、書いたり描いたりしたいんです。

すればいいじゃーん、と言われてしまえばそれはそう。そこでお話は終わってしまうんで、もーちょっと続けさせてくださいな。

コンテスト用の1万字以内についてはこの前も書きましたが初稿が出来上がり、2周ほど直しを入れました。それでもうだいぶよくなったなあ、とは思うんですが、〆切が9月なのもありもーちょっと粘りたい気持ちもあります。ただね、直しって要は新しく作ってはいないじゃないですか。飽きた、わけではないんですが、こう、達成感が得られない。

達成感は大事です。私の中で「作った!」の喜びの大半を占めています。書くことについてはまあまあ慣れているので一発書きでもまあ読めるレベルのものが書けると思い込んでいるのですが、そういう私は「書けた! 見て!」をよくSNSとかでやってきたので、プチ達成感を積み上げやすかったんですね。

ところが直し。しかもコンテスト向け。……お披露目ができないんですよ。

じゃあ描くの方をやれば? となると、近侍以外に描きたいものも特になく。いや近侍描くの楽しいんですけど。写真に描き込むタイプのラクガキを量産しているので、最近お出かけもほとんどしていないので背景に使う写真ももちろんとれていなくて、うーんうーん。

というわけでぐねぐねしているんですが、冒頭で自己ツッコミしたとおり、書けば/描けばいいじゃーんというはなしに戻ってしまうので、まあぼちぼちなんか書き/描きましょうかねえ。

まよいまよい

特に書くこともないんですが、ブログの文体についてちょおっとだけ悩んでいたりします。

このブログは私が楽しかったことの備忘録みたいな位置づけで、かつ、私という生き物を面白がってくれる人がいるなら楽しんでもらいたいなあ、という気持ちで書いています。私を面白がってくれている人がどのくらいいるのかはわかりませんが、ゼロでないことは救い、かな。

素直につらつらと書いていくとだいぶしんみりというかシリアスというか、少し重い文章になりがちなんですよね。一応は楽しませたいというエンターテイナー精神がないわけではないので、ちょこちょこと自虐を入れたり、あと私はもともとパリピのネアカなんで基本的には騒がしく、そのエッセンスも織り込んだりはしています。

おしゃべりというかリアルタイムで会話を重ねていくタイプのコミュニケーションと、ただ紙なり画面なりに向かってつらつらと思いのたけを綴っていってそれを見せるというコミュニケーション、この二つってだいぶ違います。

声を出すのがあまり得意でない(フィジカル的に。息切れします)ので会話といえばチャット的なものがメインなのですが、こちらはわりと基本的なネアカ性が出てきます。相手の発言に触発されて頭のいろんな回路が動く感じ。

一方でつらつらと綴っていくやりかただと、なんというか頭の一か所を深く深く掘っていく感じがあり、そういうのもあってだんだんと文体のようなものが静かになっていきます。

もともとこのサイトはKDP(kindleを使った個人出版)をやることになってホームにしようと思って作ろうとした、という経緯があります。つまりは「一応」、作者私と読者でコミュニケーションが取れたらなあ、という希望がうっすらとある中で作ったものでした。

結局今となってはただのブログサイトになってしまっているんですが、そんなことを思い出した夏至。父の日ですね。

ときどき、書店に行く

ときどき、書店に行く。ブックオフみたいなところでいいこともあるし、新刊書店じゃないとダメなときもある。今日は蔦屋書店に行った。

話題書が並んでいるコーナーは華やかだ。表紙を上にして置かれた本たちはもちろん表紙そのものもデザインが良く、タイトルも目を惹き、さらにポップが置かれていたりする。同人誌を作るときは基本的には表紙も自前で作っているので参考になることもある。おおむね目の保養だけで終わってしまうけれど。

正直に言うと蔦屋書店、TSUTAYAはあまり好きな書店ではない。本の並びがいまいちわかりにくいし、突然雑貨を売っているコーナーが現れたりする。私は本を見に来ているのに。

小説が並ぶ棚まで辿り着き、ざっと背表紙を眺めていく。このフロア全体から見れば随分と狭いエリアに押し込められているなと思う。小説、時代小説、詩歌、と来て小説教本のような棚があった。数段分(もちろん同じ本が何冊か並んでいたりはする)の教本を見て、これに需要があるということは書きたい人がそんなにいるのかと驚き、そして私は書き手として何を書きたいのだろうという思いが脳裏をかすめる。振り切って、商業作家をやっている知り合いの本が並んでいることを確認して蔦屋書店を後にした。無策で本を買うにはお財布が寂しい。

その蔦屋書店から目と鼻の先に小規模なブックオフがある。覗いた。今の気分じゃないなと思いながらマンガや雑誌や自己啓発書、文芸書などを眺めて、お金が使いたくなって2冊だけ買った。千円以内で収まった。

例のモノカキが集うSNSがサ終してからもうすぐ3ヶ月になる。いくつかのSNSをタブで開いたままあっちを見たりこっちを見たりしている。そしてやっぱり、どこもいまいち居場所としてしっくりこないなと思う。

モノカキが集まっているSNSコミュニティ自体は存在する。けれど、ラノベ文化からちょっと遠いところで生きてきたので「ラノベで作家デビュー!」みたいな人は異文化人だなと感じる。別のところでは「文章はエッチな表現をそのままみられるので好き」という言説も目にするが、性的センシティブ表現は、まあ書かないわけではないけれどメインではないのでお呼びでないのね、という感じだ。

書き手としてどこへ行きたいのだろう。

旧名義のころだけれど、商業のアンソロジーに作品を掲載してもらったことはある。今みたいにコミッションのようなものが広がるより少し前に原稿依頼を受けてお金をもらって文章を書いたこともある。

売れたいのか? と訊かれたらNOと答えるだろう。けれど読まれたいのか? と問われれば条件付きYESといったところか。私の物語を必要としてくれる人のもとに届けばいいと思っている。ありがたいことにウェブメインの活動のわりに感想をいただく機会は多い方だと思う。恵まれているなと思う。

20年書いてきたのでそれなりの文章技術はあると自認しているけれど、かといって飛びぬけて巧いわけでもなく、物語自体もドラマティックさに欠けているなと思う。

そんな私の文章を読んでくださってる方々、ありがとうございます。

絵を褒められても嬉しい

最初に書いておこうか、プリントオンさんに吸血鬼本を入稿しました! わくドキデザインセットです! 楽しみ!

こんな感じで写真にキャラ(ほぼ近侍)を描きこむ、というタイプのお絵描きをまあまあやってるんですが。これ、もともとは別ジャンルで見かけた写真にキャラを描きこんでいる人(めちゃうま)を見かけて真似っこしてみたのが最初ではあるんです。

ところがね。私は絵はあーんまりうまくない。ご覧の通り。というかどっちかといえば下手にカテゴライズされると思うんですよ。でもさ、絵は描きたい。楽しいので。じゃあ……とひねり出したのが、なんとか描けるデフォルメミニキャラをクローズアップ写真に描いちゃえばいいじゃない! という感じで、初めは食べ物写真に描いてたりしてたんですが、夢女なのでね、自分の指とコラボ(コラボ?)させてしまうようになりました。

上手くはないけど味はある絵だという自負はありまして、ありがたいことにめっちゃ好んでくれる人がいてありがたい限りです。もっと褒めていいのよ?

作文に関しては厳しい道を選んでも少しでも上達すればいいなあという気持ちでいるんですが、絵に関しては「これ以上は無理です! このままを愛でて!」という気分。傲慢ですが、素直な気持ち。逆に言えば、上達はしなくてもいいかなあと思っているということです。自分で満足できる程度には描けていて、褒めてもらえる。これ以上はいいかなあと。

とはいえ、いろいろなことに「挑戦」していくのは嫌いじゃないので、今日は夢女絵描き用の写真をいくらか撮ってきました。笑えよ。