小説という表現媒体で活動したい理由

書いたことがあったかもしれない。このサイトでは書いたことがないかもしれない。

らくがき程度の絵を描き、ミニチュアを並べて写真を撮り、詩を書いてみたりもしていたことのある私ですが、いろいろやった結果、やっぱりメインの活動は小説にしたいな、と感じたのが数年前(年末の振り返り記事で書いた記憶)。

小説という表現媒体のどこに魅力を感じているのかを説明してみようかなと。

まずなんといっても「基本的には一人作業で完結させるもの」というところがあります。マイペースでやっても誰にも迷惑が掛からないというのは心理的にとても楽。もちろん旬のネタがあったり、他の人とのコラボ(たとえばうちよそ)とかで歩調を合わせることもありますが、一人で完成形まで持っていけるのは全責任が自分に降りかかるとはいえ、というかそこも含めて気楽だなと。

つぎにテキストのみで伝える、というところが「そういうゲームみたいで楽しい」んです。声、ジェスチャー、図解、そういったものを封じて、テキスト「のみ」でどこまで伝わるか、伝えられるか、というゲーム。山本弘『アイの物語』に「人間とコミュニケーションをとるというゲーム(うろ)」みたいな表現が出てくるんですが、それをやっている感じです。これはこう表現したら伝わ……いやこっちの方がいいかな……? みたいな試行錯誤(基本的には直し、推敲でやりますが)が脳トレみたいな面白さ。

そしてこれに言及している人をあんまり見たことないんですが、わりと大きいのが「テキストのみだと素材として加工できる」というところ。

小説投稿サイトからの漫画化、アニメ化、というメディアミックスがいまわりと商業化志望小説執筆者が求めるメインストリームになっている実感があります。私自身は自作を商業化するつもりがないのでそういう投稿サイトに出入りしている人との交流がそもそもあまりないんですが、でもやりたいこととしてはまあそういう方向性です。

主催さんが若い方だったんで結局そのあとどうなったかわからないんですが、500文字の心臓を卒業するかそのあたりのころ、とある同人アンソロジー企画にお招きいただいていました。フォントアンソロジーという企画です。お題としてフォント(書体)が指定され、そのフォントに合うお話を書く、というのがメインの数号発行されたアンソロジーでした。

そのアンソロジーの最終号だったかで挨拶的文章を求められ(参加者全員です)、私はそれに「物語が素材で、フォントという加工をすることで作品になる感覚があった」みたいなことを書きました。それは私のわりと素直な感想でした。

フォントを変えるだけで作品の色が変わる。

それだけの「可能性」がテキスト素材としての「小説」に秘められている、と感じたのです。

もちろん、人の作品を勝手に使うのは著作権法違反です。でも、自分の作品なら自分で勝手に加工できます。フォントを変えたら? レイアウトを変えたら? 音読してみたら? 歌にしてみたら? 翻訳してみたら? イメージ画は? イメージビデオは? そういう可能性の「素材」としての「小説」。メディアミックスといえばまあそうなんですが、私自身、基本的に物を作るという行為が好きなので、自分で自分用のおもちゃを作っている感じです。

そういうところにね、小説を書くことの面白さを感じています。

かといって筋(プロット)だけ仕上げればいいかといえばまたそれは違って、私は私の扱う日本語の言葉で編まれた「文章作品」としての手触りもね、愛していますよ。小説は小説として「完成品」ではあるのです。小説が書きあがったら100。その100をさらに遊んでたとえば120にできたり、たまに82とかになったり、そういう「自分用のおもちゃとしての完成品」という位置づけです。

とはいえとはいえ。やっぱり一番長く親しんだ表現媒体ということもあり、生み出すのが楽、というのはありますよ。そりゃあねえ。20年くらい何らかの文章を紡ぎ続けてきたわけで。私はわりと飽きっぽいので、そんな私が20年も続けられたんだから、そもそもが「私に合う」表現方法だったんだろうなと思います。そういう自分に合うもの、出会えたことはありがたいですね。

投稿者:

氷砂糖

九州在住。ネットの隅っこで書いたり読んだり。なんか20年くらいカキモノしているらしい。

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